たしか26年前、私が初めてインターネットを触って、モザイクというブラウザで、
アメリカ政府からInformation Super HighWayのドキュメントをダウンロードしたり、どこかのエンジニアがアップしてくれていたフェルメールの絵をすべてカラーのモニターで見たり、ジェニー・ホルツァーの『トゥルーイズム』の詩の言葉がどんどん上書きされていくサイトを見たり、伊藤穰一が『WIRED』の「NETSURF」というコラムで紹介するサイトを見たりしながら、
ヴァルター・ベンヤミン、マーシャル・マクルーハン、ベネディクト・アンダーソン、ノルベルト・ボルツ、フリードリヒ・キトラーといった人たちを読んで考えていたのは、
「アイデンティティのポートフォリオ(分散保有)」
という概念でした。
寺山修司の「俳優の役割は接触の媒介である」
マクルーハンの「メディアはメッセージである」
という言葉に対する私の解釈、
「メディアを考える時に大事なのはメディアの上を流れる情報ではなく、そのメディアによる人々の結びつけ方だ、それこそがそのメディアのメッセージだ」
に従って、
現在の時代を生きる
私たちの目の前にある「メディア」の「メッセージ」を読み解けば、
私たちは、「リアル/ヴァーチャル スペース」において、価値・関心を共有するもの同士、国、文化を超えてコミュニケートできる(ここで英語は重要なのだが)。
それぞれはそれぞれの関心に応じて複数のコミュニティに参加する。
それぞれはアイデンティティをポートフォリオのように分散保有する。
そこでは情念のどろどろの世界に取り込まれたりして、ゲマインシャフト的に一つのコミュニティに固執することはない。
あるコミュニティで居心地が悪い時はそことは一定期間距離を置き、あっさりとゲゼルシャフト的な「都市」の「リアル/ヴァーチャル」な空間の中で、他の複数のコミュニティに行ったり来たりする。
ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』のイメージで言えば、「諸機械の離合集散」、そのような人間関係が健全で生産的なはず、と考えていました。
その状態を「アイデンティティのポートフォリオ(分散保有)」と26年くらい前に勝手に呼んでいたのですが、近年、さらにその実現性は高まってきたのではないでしょうか。
そしてその複数のアイデンティティのポートフォリオ(分散保有)の状況すべてを見通せるのは基本的に自分だけなので、そのことを考えるとたしかに、保留つきな気もしますが、
The future is private. (ザッカーバーグ)
なのかもしれません。