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第3問 「アートにおける課題提起とは何か?」への応答

第3問
アートにおける課題提起とは何か?

私の答え(らしきもの)

「芸術とは、別の手段による戦争の継続である」(インゴ・ギュンター)

自分に必然性のあるテーマで「語り直し」(反復し)、何らかの象徴秩序を突き詰めて解除すること、だと思います。

昨日が命日の寺山修司のように。

「われわれは語らないかぎり、何も見ることができない。正確にいえば、見るとは語りなおすこと、すなわち絵を再度、描きなおすことである。いうまでもなく、語れないことは、抑圧され、永遠に忘れ去られ視界から隠されてしまう。絵はいつでも夢に似ている。それは語られること、すなわち作りなおされることの中にだけ存在する。絵は誰の視線にも開かれているようだが、誰もが同じ絵を見ているわけでも見えるわけでもない。その絵がそのように在ると思えるのは、存在が確かめられるのは、ただ語りなおすという行為によってだけであり、つまり語りうる者、絵を描きうる者だけが絵を見るのである。」
岡崎乾二郎『マニエリスム論序説 信仰のアレゴリー』1992年1月『批評空間』第1期4号所収

—–以下、私がAmazonで『ラカンで読む寺山修司の世界』に書いたレビューです。—–

三島由紀夫が『金閣寺』で、おそらくイマニュエル・カントの『判断力批判』を参照しながら、

金閣寺が空襲で燃えてなくなりそうな時、圧倒的に「悲劇的な美しさが増した」と書いたように、

永遠に確固として存在する構成的原理としての「美」ではなく、統整的原理として、歴史の中、明滅する「崇高」をどのように取り出すことができるかをラカンに依拠して描き出した本。

寺山の生きた20世紀中盤から21世紀にかけての芸術の中で、
「美しい形象」とは、あるいは「崇高な形象」とは、
どのように創り出すことが可能か、

どうして寺山の演劇が、

「思想的な課題を劇の全体で背負っていたにもかかわらず、寺山修司の舞台はつねに美しかった。この世のものとも思えないほどに美しかったといってよい。劇は一瞬静止して絵画になる。そのような一瞬がちりばめられていた。再びその舞台に接することができないことを思えば胸が痛むが、しかしその最良の部分を十二分に味わうことができたことを思えば、おそらく私は幸運だったのだといわなければならないだろう。」(三浦雅士)

というようなものだったかを丹念に解析・探究した本。

ちゃんと読み込めば、すべての芸術に携わる人へのヒントが溢れていると思います。

寺山を手がかりに、ラカン自身により、ラカンの「リミット」を超えていくことができることを示した、おそらく後期ラカン読解の重要な参照文献でもある(本書のオリジナルは精神分析学会(病跡学会?)で博士学位論文として、ジャッジも通過しています)と思われます。


 ここで想起したいのは、ラカンが次のように言っていることである。
「現実的なものは、形式化の行き詰まりによってのみ記入されるでしょう。この点において私は数学的形式化から出発して現実的なもののモデルを描くことができると思ったのです。つまり、数学的形式化は、われわれに与えられた中でシニフィアン性のものを産出する最も高度な努力だからです。」

 ラカンの形式化はそれ自体では存在しない現実的なものを描き出す手段であり、ランガージュの効果によって、現実的なものを産み出すための地図のようなものだというわけである。ラカンはその生涯において、こうした地図をたくさん残したが、『セミネール』XXで示した地図は、ラカンの欲望のグラフでは表されていなかったものが示されていたことに注意を要する。

 寺山の演劇は、戯曲によってファルス的享楽が縁取られ、そのうえで、そこからの出口として、ファルスを解除することによって産み出されるスペクタクルが現出していた。その意味で、まさしくこの『セミネール』XXが示した地図によって理解することができるものだといえよう。

 1978年に初演され、商業演劇として再演され、最終公演にもなった『レミング』は、戯曲構造において、我々の生をからめとる国家、家族、資本主義などのイデオロギー装置を浮き彫りにしつつ、そこからの出口を創造せよというメッセージとともに、シンギュラーなスペクタクルを産出していた。無限性を言語活動によってファルス的享楽として追いつめ、その操作の極限において、それを手放し、他者の享楽へ媒介なく開かれるといったありようを、そこでは目撃することができたのである。

本書、pp254-257より

ラカンで読む寺山修司の世界 https://www.amazon.co.jp/dp/4901510479/ref=cm_sw_r_cp_api_i_Vt7YCbK1959FV

インゴ・ギュンター の作品は例えばこういうものです。

「ワールド・プロセッサー」は、ドイツ生れのメディアアーティスト、インゴ・ギュンターが1986年から制作している作品群。中に電球の入った直径30センチほどの地球儀を素材として、そのひとつひとつに地球上で起きている様々な問題や現象を表現しています。

テーマは、環境、政治、経済、軍事など、物理的、地理的、社会的なあらゆる範囲に及び、それぞれのタイトルは「オゾンホール」「熱帯雨林の減少」「100カ国語の地球」「TVの普及率」「現在紛争が起こっている地域」、さらには「ヴィトゲンシュタインの世界」など抽象的な概念を表したものも。様々な地球の顔が一堂に会すことにより、緩やかな網の目のような関係性を持った、あらゆる事象を含む世界が杳々と、しかし確実にそこに立ち現われます。「ワールド・プロセッサー」は、現代社会と地球が直面している問題、希望そして美を俯瞰するためのインターフェイスです。

メインギャラリーには108個のイルミネーションの地球儀が整然と並べられ、観客はその間を自由に回遊。各々の地球儀にはタイトルもキャプションも表示がなく、入り口で手渡される配置図と自分のいる場所とを照らし合わせて、地球儀の明かりを頼りにそれが何を表しているのか見つけ出します。サブギャラリーには展示方法の異なる3種の地球儀を設置。そのうちのひとつは「ライブ・グローブ」と名付けられ、アクリル半球に回転する実際の地球映像を投影しました。

開催概要

インゴ・ギュンター「ワールド・プロセッサー」
会期:1990年4月24日〜6月23日
会場:P3 Alternative Museum, Tokyo
主催:P3 Alternative Museum, Tokyo
協力:東京ドイツ文化センター、Lufthansa、日本電気株式会社

http://p3.org/JAPAN/1990/04/project_tochoji_exhibition_worldprocessor1990/