あるアーティストからの第2弾の質問、
「アートは好きですか?嫌いですか?アートとはなんですか?」
に以下のように応答しました。
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「哲学の役割は、(新しい現実を捉える)概念(コンセプト)の創造だ」といった哲学者がいましたが、ほぼ同様にアートの役割も「概念の創造」だと考えます。
そしてそのようなアートは、好き、嫌いという趣味的なものではなく、同時代を生きる人が等距離でコミュニケートする媒介(メディア)となる為の、滋養のある種子として時間を含んでいるものだと思います。
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彼はこのチャンスを認めるや、歴史の均質な経過を打ち砕いて、そのなかからひとつの特定の時代を取り出す。同じようにして、彼はこの時代からひとつの特定の生を、そしてこの生のなしたすべての仕事(作品)からひとつの特定の仕事(作品)を取り出す。彼のこの方法の成果は、次の点にある。すなわち、ひとつの仕事(作品)のなかにひとつの生のなした全仕事(全作品)が、この全仕事(全作品)のなかにその時代が、その時代のなかに歴史経過の全体が、保存されており、かつ止揚されているのである。歴史的に把握されたものという滋養ある果実は、その内部に、貴重な味わいのある、がしかし趣味的な味とは無縁の種子として、時間を孕んでいる。
ヴァルター・ベンヤミン『歴史哲学テーゼ(歴史の概念について)』
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それは、
個別性-一般性 の思考回路ではなく、
単独性-普遍性の思考回路の中に立ち現れるものです。
(cf. 柄谷行人『言葉と悲劇』「個別性と単独性について」)
単独性(singularity)こそ、
同時代の誰からも等距離でsingularなもの、媒介(メディア)となるもの、です。
それは次のような「完璧な人間」でもあると思います。
「故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、すでにかなりの力を蓄えたものである。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。」
ヴィクトル・フーゴー『ディダシカリオン』
学生の頃、
複数のコミュニティへの「アイデンティティのポートフォリオ(分散投資)」ということを考えていました。
一つにのみ属していると場合によってはゲマインシャフト的に情念の泥々の世界に苦しむことになるかもしれないところ、複数に属していれば精神衛生的に健康でいられると、
また「メディアはメッセージである」
というマクルーハンの言葉の意味は、メディアの「メッセージ」とはその「メディアの上を流れる具体的情報」というよりは「人々を結びつける形態」のことだと思っていました。
例えば、「近代」において新聞というメディアが、朝、同じくらいの時間に同じように新聞を読み考える人たちという意識を生み、同じ国の「国民」という意識を生んでいったように。(cf.ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』)
インターネットが、インターネットの中の各種サイバーコミュニティが、世界中の人々を新しい仕方で結びつけるなら、それはそれら各種メディアのメッセージであり、仮想空間(「平滑空間」cf. ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「遊牧論と戦争機械」)で多種多様なコミュニティに属しつつ、自分と同じアイデンティティのポートフォリオを持つ人はいない、逆説的に、単独的(singular)な状態に近づいたりするのかも、とも思っていました。「存在を本質に先行させる」(サルトル)。
事によると、最近の
プラットフォーム思考とカスタマーサクセス、などにつながっていきそう。