批評の役割は、作品が表現しようとしたことを語り直すことだと思います。
優れた批評家とアーティストの関係は、
例えるなら、
音楽の演奏家と作曲家の関係に少し似ていると思います。
演奏家は作曲家の意図した/あるいは意図しなかった、楽曲の可能性を十二分に引き出すように演奏する(語り直す)。
批評家もアーティストが「表現しようとしたもの」を言葉で語り直し(言葉で絵を描き直し)表現しようとするのだと思います。
逆にアーティストがある作品を(ある批評を)批評するように作品で「語り直す」(絵を描き直す)こともできます。
それが「差異と反復」「観るとは語り直すこと」「語り直せないものは観ることができない」「絵を描き直すことによってのみ、絵は観ることができる」というような命題の意味だと思います。
つまり、批評とは言葉によって、作品を(あるいは作品が表現しようとしたもの/作品が表現しようとしなかったものを)創り直すことだと思うのです。
例えば、ジャン=リュック・ゴダールが映画を撮り始める前に、映画批評を書いていたというのは、そのような批評家とアーティストの関係、近さを示すようにも感じます。
観るとは語り直すこと、
とは
差異と反復
反復しえないものの反復
同じことをするのではなく、
同じ強度の別のことをする
ということだと思うのです。
デュシャンが世界で初めて、
便器をアートのコンテクストの中に持っていって「泉」という作品だとしたこと
ジョン・ケージが、
無音の4分33秒を発表したこと
それらは後の人が同じことをしても、同じこと(同じ意義)にはならない。
それらが表現しようとした核心を同じ強度で別の形で語り直す(創り直す)ことが大事なのだと思います。
初めにexcess があったから、
そのexcess を反復する。
「永遠回帰の基体は、同じものではなく、異なるものであり、似ているものではなく、類似していないものであり、一ではなく、多であり、必然性ではなく、偶然である」
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この絵に隠されていた「注意深く見つめる女性」を、制作から300年以上の歳月を経て、やっと、われわれは見ることができた。
隠されていたというのは正しくない。
それは、ニューヨークのメトロポリタン美術館に常時展示され万人の視線に晒されているこの絵のもっとも目立つ中心にあって、いつでもこちらを見つめていたのだから。
にもかかわらず、なぜ、誰にもそれが見えなかったのか。
理由は簡単である。
見えたとしても、誰もそれを語れなかったからである。
われわれは語らないかぎり、何も見ることができない。
正確にいえば、見るとは語りなおすこと、すなわち絵を再度、描きなおすことである。
いうまでもなく、語れないことは、抑圧され、永遠に忘れ去られ視界から隠されてしまう。
絵はいつでも夢に似ている。
それは語られること、すなわち作りなおされることの中にだけ存在する。
絵は誰の視線にも開かれているようだが、誰もが同じ絵を見ているわけでも見えるわけでもない。
その絵がそのように在ると思えるのは、存在が確かめられるのは、ただ語りなおすという行為によってだけであり、つまり語りうる者、絵を描きうる者だけが絵を見るのである。
岡崎乾二郎『マニエリスム論序説 信仰のアレゴリー』1992年1月『批評空間』第1期4号所収